日常と非日常(代表コラム)

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事業所に「優先供給」で消毒液やマスクが配布されました(先月には自治体から残数をたずねる調査が行われていたのです)。ありがたく使わせていただきます。

さて、見通しのもちにくい日々です。子どもたちにとっても、大人にとっても。

新型コロナウィルスの感染拡大はとどまることなく、今日は京阪神の往来自粛が勧告されました。ニュースを聞いたとき、大阪まで塾に通っている子どものことやお気に入りの外出先が遠くにある人たちのことが思い出され、いっそう活動の制約が増えるのではないかと心配しています。

この様子だと、学校も本当に再開できるのかどうか、はっきりしません。身近な地域の中に感染者や濃厚接触者が見つかれば、状況は一変するでしょう。大学は多くがネット講義に切り替えており、対面の講義は大幅な延期を求められています。地域によっては、夏まで対面の講義をあきらめる大学も出てきました。

春休みでもあるため、子どもたちや家族への目立った影響は目に見えにくいです。保護者が働いていれば、保育所や学童保育所に通えているでしょうが、それがすべての子どもたちではありません。親子いっしょに家の中で過ごす時間が長くなっている子ども、保護者が働いていても学童保育所に行っていない子ども、受験を終えたり部活がなかったりする中学生など、状況はさまざまです。

多くの人にとって、会いたい人と会えないことや行きたいところに行けないことは、大きなストレスでしょう。今ならば、ゲームやスマホなどを通じて、オンラインで誰かとつながることができるため、相手さえいれば、昔よりは孤独を感じずに済むのかもしれません。それでも端末や画面をはさんだやりとりばかりを続けるのは、心身への負担も大きそうです。

ところで、私たちの関わっている親子の中には、これまでも行き場所のなかった子どもたちや行き場所に制約の多かった子どもがいます。不登校の子どもたちや重い発達障害の子どもたちです。

外に出かけることへの不安が強く、家の中でゲームやスマホに没頭するしかなかった子どもたちや屋外環境での刺激に耐えられず行き先が制約されてきた子どもたちにとって、今の状況はどのように見えているでしょうか。ずっと変わらない日常が続いているだけかもしれません。あるいは、世の中がようやく自分たちの生きづらさを追体験しはじめたように感じているかもしれません。

「子どもたちの行き先や過ごし方をどうすべきか」という議論が巻き起こってきたことについて、不登校の子どもの保護者からは「私たちが昔から悩んできたこと」という声も実際に聞きました。学校に行きづらさのあった子どもの中には、春休みが大幅に早まって喜んでいる子どももいました。長期休暇に入ると「学校に行かねばならない」というプレッシャーから解放されて、心身の調子がよくなる不登校の子どもは少なくないのです。

地域の中にいる子どもたちも家族も多様です。多数派にとっての非日常が少数派にとっての日常であるとしたら、どうでしょうか。今は、社会の中でみんなが「当たり前」に思っていたことが問いなおされているのだろうと思います。つまり「多くの子どもたちが集まって活動するのがよい」とか「家に閉じこもるのはよくない」とか大人たちが作ってきた規範が、ブーメランとなって自分たちを傷つけます。

もちろんずっと家にいることが心身に及ぼすマイナスの影響は大きく、感染症対策とその他の課題をごっちゃにすることへのお叱りもあるでしょう。それでも、今が「非日常」ではなく、ずっと前からの「日常」である子どもや家族のことを思うと、まだまだこの社会は多様な子どもたちへの用意が足りておらず、今こそ「人と直接に交わらなくても豊かに生きられる」と信じられるような意識と制度設計の転換を考えていかねばならないのではないかな、と思いました。

…と書いていくと、「みんな集まらずに家でうまく過ごせるようにしていこう」という提案に聞こえるでしょうか。一方で、さまざまな事情があって親子で長く過ごすことが難しい家庭にとっては、現状はとても高いリスクを抱えた状態です。「家で親子で向き合う時間にしてください」なんて悠長なことは言っていられません。「不要不急の外出は避けて」というときの「不要不急」はこれからも定義されないのでしょうね。今は「働く保護者の子どもを預かること」だけが「急を要すること」として扱われていますが、これからもっと拡張されていくべきです。

限界に達した子ども・家族によるニュースが報じられてくるのもまた時間の問題でしょう。対応が後手に回らないように、地域として、組織として、知恵を絞っていかなければいけません。

 

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