発達障害と愛着の複雑な関係

スタッフ研修

11月30日は、京都市内某所で「愛着」をテーマにした勉強会があり、職員1名が参加してきました(クローズドな勉強会のため、詳細は差し控えます)。

子どもの支援をする者にとって「愛着」というのは「取り扱い注意」の言葉だと思っています。

「愛情」とも誤解されやすく、「子どもの愛着に問題がある」と言うと「子育てにおける愛情が足りない」かのように聞こえてしまいますが、親の愛情と子どもの愛着とは関係がありません。親がどれだけ愛情を注いで育てていても、子どもの愛着に課題が生じることはあります。

愛着を論じるとき、大事と言われるのは「安全基地」です。子どもは多くの場合に親を安全基地として拠点にしながら行動範囲を広げ、次第に親のイメージを心の中に抱けるようになっていきます。いわゆる「心のよりどころ」ですね。そして、だんだんと実際に親が近くにいなくても安心して世界と関われるように成長していきます(念のために書いておくと「親」でなくても愛着形成はできます)。

しかし、子どもに重い障害があれば、どうでしょうか。不安の感じ方も養育者への認知のあり方も違ってきますから、同じようには言えない部分もあるでしょう。親にとってみれば、しっかり愛情を注いでいるのに、子どもが目と目を合わせてくれない、与えたおもちゃに関心をもってくれない、作った食事を食べてくれないなど「自分の子育てが子どもの安心につながらない」困難を感じることは多いはずです。そんなふうに苦労してきたお母さんに「愛着」を説くのは的外れです。

ところが、近年になって虐待を受けた子どもが「愛着」に問題を抱え、さまざまな行動上の問題を示すことが言われるようになりました。この「行動上の問題」が自閉症スペクトラムやADHDの特性と類似することがあるのです。

このあたりから話はややこしくなっていきます。発達障害は「育て方」と無関係であると科学的に明らかにされてきたのに「育て方」で発達障害のようになりうる、と言われたら、親は困ってしまいます。「虐待は別として、一般的な子育ての範囲では大丈夫」と条件をつけて説明すればよいのですが、さらに突き詰めれば「一般的な子育て」って何だろう、というのも難問です。そもそも多くの人は自分の子育てを「一般的である」と信じていますから。

「愛着障害」という精神医学上の診断名があります。医学上の「愛着障害」はかなり限られた範囲でしか使えない言葉なのですが、有名なお医者さんがかなり広い意味で使ってしまい、その意味で書いた本がよく売れたこともあってか、子どもと関わるさまざまな人の間で聞かれるようになりました。つまり「発達障害なのか? 愛着障害ではないのか?」と二者択一で判断しようとする人が増えてきたわけです。

今回の勉強会では「発達の特性」なのか「愛着」に原因があるのかの判断が難しい(あるいは判断までに時間がかかる)ケースについて考えることができました。虐待やトラウマに対して子どもなりに対処しようとして、ある意味では「適応」しようとしてさまざまな行動が生じてきます。何かに没頭すること。過敏に反応すること。注意を分散させること。確かに「発達障害」にも当てはまる行動です。もし家族関係や生育歴に課題があって子どもがSOSを出している姿なのだとしたら、それは「子育ての問題ではない」と言えなくなります。

では、私たちが問題のありかを勘違いせず、親の子育てを良い方にも悪い方にも誤解せず、適切な支援を行っていくにはどうしたらよいでしょうか。

結局のところ、親子の生活や人生を総合的に理解していくしかないのだと思いました。私たちは医師やセラピストと比べれば日常的に身近なところで親子と関わることができます。いま親子が困っていることから問題にアプローチして信頼関係を築き、試行錯誤の中で仮説を改め、違う解決策を模索していくことができます。

また、どんな子どもにとっても大切なこと、は変わりません。安心を保障すること。「わかった」「できた」の実感を得られること。そのための環境を用意すること。「発達障害」でも「愛着障害」でも「定型発達」でも関係なく、整えていけるユニバーサルな支援はたくさんあるはずです。それは、子どもに対しても、保護者に対しても、です。

とてもタイムリーで明日からの指針となる内容でした。ありがとうございました。

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