赤ちゃんの望みとは、赤ちゃんの願いとは

講師派遣

11月1日は宇治にて「赤ちゃんとの関わりの中で、いま私たちにできることを考えよう」という講座があり、代表が前座としてお話をしてきました。主催は子育ての文化研究所さんです。

会場はキッズいわき・ぱふ。京都で最も有名なおもちゃ屋さんと言ってよいでしょう。「そら」でもよく購入させていただいています。

群馬で乳児期の子どもから幅広く「からだ」に関わっておられる町村純子さん株式会社ゆう地域支援事業團)をお招きしての講座です。町村さんはかつて自治体で保健師として勤められていた方で、現在は児童発達支援事業所の運営や個別相談などをされています。コンサルティングで全国をとびまわってもおられます。

京都府による「子育て支援と他分野と企業とのコラボ」への助成ということで、そら代表は「発達が気にかかる赤ちゃんのその後」についてお話しすることを期待されてご依頼をいただきました。ただ、子育てひろばも就学前療育も放課後支援もやっている私たちであっても、同じ子どもを赤ちゃんのときから青年期まで続けて支援した経験はまだありません。

「乳児期にこう関わったから、大きくなってからの子どもがこんなふうに暮らしやすくなった」という因果関係を示すには、かなりの数の親子と長年にわたって関わり、変化を客観的に記録していく必要があります(さらには「関わらなかった親子」との比較も必要です)。それは私たちにも難しいので、今回は子育て支援の関係者に「発達に課題をもつ子どもと保護者が学齢期以降にどんなふうに困りやすいか」「福祉的な支援はどのような現状にあるか」などをお伝えさせていただきました。

前日には舞鶴でも同じ講座があったため、二度お聞きすることができた町村さんのお話は、0歳児からのからだの変化について丁寧な観察に基づくものでした。「障害福祉」はもちろん「療育」にたずさわっていてもあまり学ぶ機会のない内容で、これからもっと勉強しなければいけないと思うと同時に、考えさせられたことも多かったです。

発達障害について「早期発見」「早期療育」が重要だとよく言われます。

多くの場合、私たちの支援がスタートするのは、誰かが「困りはじめた」ときです。育てにくい子だと家庭で感じられたとき、他の子どもとの違いに不安を覚えたとき、園や学校でみんなと同じようにできないときなど、保護者や子ども自身のしんどさを軽減したいと支援者は思います。

「困っていない」という人に「このような支援を受けるべきだ」ということを「福祉」は躊躇します。「療育」もそうかもしれません。「パターナリズム」という言葉を聞かれたことはあるでしょうか。とても大ざっぱに言えば「立場が上の者が、立場が下の者について『あなたにとって、このようにしたほうがいい』と代わりに決めてしまうこと」です。このような状況は、専門職と保護者の間にもありえますし、親と子の間にもよく見られるでしょう。

障害福祉の歴史を見れば、重い身体障害をもつ人たちについて本人の意思よりも医師や家族の意向が優先されて、社会的な支援の充実よりも「障害をなくす」ための手術が繰り返された時代がありました。そんな歴史への強い反発から、自分で自分のことを決めていこうとする障害者運動の中では「親は敵だ」という声まで当事者から聞かれたのです。支援においては「私はこうしたい」「こうありたい」という本人の願いや望みが何よりも尊重されなければなりません。

さて、赤ちゃんや幼児については、どうでしょうか。子どもが小さければ小さいほど、自分にとって何が望ましいのかを理解できません。発達の遅れや偏りが子ども自身に「困り感」「しんどさ」として自覚されるようになるまでには時間がかかります。

一方で、親や支援者の目線からは「このままいくと、困ることになるだろう」と感じられるときがあります。これから子育てが難しくなっていくのではないか、学校で苦労するのではないか、と。だから、ほっておけないと先回りして動きたくなる。具体的な問題が生まれてくることに対する「予防」の必要性を自然と感じるわけです。

子どもの「療育」にも関わる立場として、そのような先回りの必要は十分に理解しつつ、発達の「遅れ」や「偏り」に対して大人たちが否定的になり過ぎないように、どこかで確かな基準をもっておきたいと思いました。障害はないほうがいいのか、障害はないにこしたことはないのか、障害はその子どもの大事な一部なのか、といった難しいテーマにもつながります。もっと突き詰めていけば、優生思想や出生前診断や遺伝子操作などの議論とも無縁ではなくなるはずです。

講座の中でもお話ししましたが、代表自身もかなり発達に偏りがあり、さまざまな困難を感じながら生きてきました。ただ、そのような偏りの一部である「強い思い込み」や「融通の利かなさ」や「落ち着きの無さ」を前向きに活かすことで、子どもたちや家族を支える法人を設立して展開させてこられたのだろうとも思えます。それゆえに、自分自身が乳幼児期に療育を受けたかっただろうか、と自問すると「よくわからない」というのが現時点での答えです。発達上の課題といっても様々な種類、様々なレベルがありますから、一般化できることは少ないでしょう。講座では「赤ちゃんの望みとは何だろうか」という問題提起だけさせてもらいました。

これからも簡単に答えが出せるとも思いませんが、ヒントになりそうな考え方をひとつだけ。京都府の児童発達支援管理責任者の研修では発達支援について「手持ちの力を使いきる」ように支援すること、とおっしゃる講師がおられ、共感を呼んでいました。発達とは語源として「包みを開くこと」である、という説明もあり、「すでにあるものを活かす」ことを大切にする理念は「障害福祉」とも「療育」とも相性がよさそうです。

子どもも親も無理なく楽しく力を発揮できて、難しい部分はちゃんと環境によっても補われる。そんな支援と社会であってほしいと願います。

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