誰も無理をしないこと、正しくおそれること(代表コラム)

代表コラム

きっと今いちばん大変な人たちは医療関係者だろうと思っているのですが、福祉関係者もまた過去に体験したことのない日々を送っています。

私たちが支援をしている方たちからは「支援を続けてもらえるのか」という不安とともに「支援を受けていてもよいのだろうか」いう疑念も表されるようになってきました。日常では考えにくいことです。

「不要不急」であれば慎めと言われる昨今。しかし、そもそも不必要なのに支援を求める人はいません。不必要なのに提供される「福祉」があるとすれば、それはもう「福祉」とは別の何かなのでしょう。緊急事態宣言が出ても「福祉」は休業要請の対象にはなりません。昔から「福祉」をやってきた者にとっては当然のことです。

最近の「福祉」に対して人々が「必要」以上のことまでも求めるようになってきたということでしょうか。それとも「必要」なことが「各自の努力や工夫でもっと何とかすべきもの」に含まれるようになってきたのでしょうか。

前者だったら幸せなことかもしれませんが、後者ならば由々しきことです。「本当は自分の力でどうにかできるのだから、頼ってはいけない」と思い込まされているのですから。

子どもにとって必要なことと家族にとって必要なことは必ずしも重なりません。子どもも家族も全員にとって必要性が感じられているならば、何も迷うことはないでしょう。でも、たとえば親の就労に伴う支援ならば、子どもの気持ちよりも親の必要性を優先させている、と思えてしまうのかもしれません。あるいは「療育」ならば、子どもの発達にとっての価値がいくら伝えられても親としては必要性が十分に感じられない、ということもあるでしょうか。

ここで大切なのは、子どもと家族の暮らしが「誰も無理をせず」営めることです。

家族はそんなに容易く崩壊したりしません。だからといって、一家離散や心中にまで至らなければよいということでもなく、誰も犠牲にならずに成り立つ家族を作っていくためにも私たちの支援はあります。子ども、きょうだい、お母さん、お父さん、祖父母など、みんな心身ともに健康でしょうか。自分自身の人生を選べてはいますか。我慢を重ねてはいないでしょうか。

ひとたび生まれた問題はまたすぐに次の問題を生みます。「転ばぬ先の杖」「予防」もまた大切な福祉の役割なのだということはぜひ知っておいてください。

このように強調してもなお支援を受けることに躊躇される方はいるでしょう。

今は人が集まれば、自分だけでなく他の誰かを危険にさらしてしまう可能性がある、というのは、よく理解できる理由です。もし、支援をする側も受ける側もいっしょになって取り組むべき課題があるとしたら、この「密」に関することだと思います。子どもも家族も支援者もみんな感染を避けられるように。それぞれに知恵と工夫を出し合いながら。

ところで、そのように合理的な恐怖を抱くこと、「ただしく怖れる」ことはよいのですが、感染をおそれて、社会環境も人々の心理もどんどん変わってきているように感じています。

環境の変化に備えるのは、多様な子どもを支援する者にとって慣れたことです。世の中の変化が苦手な人は日常的にもたくさんおり、必要な手立てはある程度まとめられてきています。けいはんな公園の水景園が閉まっていようが、マクドナルドがテイクアウトしかできなかろうが、きっちり対応します。自粛で居場所が失われた子どもがいれば、制度外での支援もしています。

少し戸惑うのは、一般の人たちが感染をおそれるあまり、他人の行動に対して監視的になってきているのではないか、ということです。

昨日、はじめて精華町内で新型コロナウィルスの感染者が見つかりました。

もちろん誰であるかはわかりませんし、詮索すべきでもありません。人々にできることは、変わらず感染防止策を講じ続けることだけでしょう。しかし、今日になって複数の方面から「感染者は南都銀行とマンションの間のビルで働いている従業者だという噂が出回っている」という話を聞きました。

それは、私たちの法人本部があるビルのことです(ちなみに「ほうその共生ビル」といいます)。1階は他法人の運営する障害者就労の事業所であり、カフェでもあります。2階と3階は、私たちの運営する事業所で、多くの子どもたちが使っています。

ビルで働いている者の中に感染者はありませんし、京都府から発表されている感染者情報と条件が重なる者もいません。もしそのようなことがあれば福祉施設ですから当然、事業は休業されますし、そのように公表されるでしょう。

1階にあるカフェここらくが先日から休業しているため、その様子と勝手に関連づけられたのかもしれません。感染に対する「おそれ」のひとつの表れ方です。しかし、そのような不安が人々の間に存在することを肯定しつつも看過はできません。「誰が感染したのか」を探り当てようとすることは、感染者に対する差別と紙一重だからです。

ここで「私たちの職場に感染者はいない」ことを強調したいわけではなく、ただ「違う」ということだけをお伝えする必要がありました。この点は重要です。

民族差別に対する批判に「お前も在日だろう」という言葉が投げられることがあります。異性愛中心主義に対する批判に「お前も同性愛者か」と言われるのも同じです。ここで「私は日本人だ」とか「私は異性愛者だ」という返答が、単なる事実の表明でなく、価値観やメッセージとして受けとめられてしまってはいけません。それは、さらなる差別に加担するだけです。

ただ「違う」とは伝えておかなければ、またさらなる不安を招くおそれがありますから、この場でお伝えさせてもらいました(もちろん、誰がどこでいつ感染してもおかしくないのですから、この先はわかりません。細心の注意を払いながら、もし感染者が出たら然るべき対応をとるだけです)。

コメント

タイトルとURLをコピーしました